神は天にいまし、世はこともなし

思考整理からすけべな話まで

ブログのタイトルにあるやーつ

「神は天にいまし、全て世はこともなし」

 

誰かの詩だったような覚えがある。

断じて自身の宗教観だの、神様がみてくれてるわよ!!みたいなのは書きません。

ああいったものは各々の胸の中に在るからこそ、尊ぶべきなんじゃないかなとも思う。書いとるやんけ。

 

さて、冒頭の言葉だけど。

大学のなんかの授業で聞いて、なぜだか印象が強い言葉として残ったいる。

 

絶対に詠った人の思いとは違うのだろうけど、自分はコレを

「そんなんでくよくよすんなよ。くだんねーことだぜ、ベイベー」くらいのファンキーな言葉だとして捉えている。

 

きっと「天には神様がいて、全てみてくれているわ。だから世界は平和なのよ」的な意味なんだらうけど、詩とは昔も今も聞き手を殺し、救うものだと信じている。という、詭弁。

 

あくまで今現在の、一過性な話をすれば、きっと自分の考え方は捻れている。たまに直ったり、たまにトリプルアクセルキメたり。

物事にはちゃんと喜ぶべきこと、怒りをぶつけること、悲しむべきこと、気持ちよくなることが用意されていると思うのだけど、あまりピンとこない。

 

どうせ死んだら全部一緒だぜ。とまでは言わないけど、なんだか大きな痛みを伴う衝撃があっても「生きてりゃそういうもんだよな。しゃーない、しゃーない。」と思ってしまう癖がある。

 いじけてるわけでもなく、全てに諦めてるわけでもなく。

 

きっと「いつかパッと地球が滅亡してしまっても仕方ないのかな」と、ある種の少年少女が感じ得る部分がどこかに残っているんだろう。

それらは多分、幸福だとか成長とはまた別部分の箇所にあって拭いきれないシミみたいなもので。

忘れることはあっても消えることがない。

 

ええと、なんの話だっけか。

ブログのタイトルでしたね。

 

神さまというワードに、もしくは存在に、影みたいなものがあるとしたら、それは死なんだと思う。喪失とも言えるかもしれない。

それらがあるから頭の何処かで神さまを信じるし、便意を消してくれとせがむ。昨日は危なかった。

だからこそと言うべきか、この言葉が好きなのは、そんな神さまが天から見てくれているのに死だとか喪失は今も何処かで息を潜めてる訳じゃん?ごく当たり前のように。

神さまの無能感をそこに感じるというよりかは、死や喪失ってものさえ「受け入れるべき当然のこと」だって教えてくれるような言葉な気がして。

 

だから、すがってるんでしょうねぇ。